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直前まで武力衝突の「回避」を試みていた家康

史記から読む徳川家康㊼

 ところが、そのような状態となっても、豊臣家は大坂城に集った牢人たちを解散させず、それどころか軍備を増強していたらしい(「留守文書」)。破却の作業が終了した同年3月になっても、豊臣方の動きに変化は見られなかった。

 

 大坂の状況を知らされた家康は、豊臣家に対し、さらなる条件を提示している。それは、秀頼が大坂城から退去して大和(現在の奈良県)か伊勢(現在の三重県東部)への国替え、もしくは牢人をすべて放逐して大坂に留まるかのいずれかを選択せよ、というもの。

 

 牢人衆は、いずれも関ヶ原の戦いで所領を失った者たちである。その目的は何らかの形で所領を得ることにあった。家康が牢人たちへの給与を拒否していたから、彼らは豊臣家とともに家康と戦い、戦功をもって所領をもぎ取る他なかった。ひょっとしたら、秀頼も淀殿も、彼らを制御することができなくなっていたのかもしれない。

 

 豊臣家の内情がどのようであったにせよ、結果として彼ら牢人たちを退去させることができなかったことを、家康は敵対行為と見なした。

 

 同年45日、秀頼からの使者が家康のもとを訪れ、秀頼の国替えを拒否する回答がなされた(『駿府記』『駿府政事録』)。家康は「是非なき次第」と返答している。つまり、「どうしようもない」と考えた。家康は翌6日に、諸大名に軍勢を出すよう命じている(『駿府記』)。

 

 同10日には九男・義直(よしなお)と浅野幸長(あさのよしなが)の娘との婚儀のため、名古屋に到着。ここでまた、家康は秀頼らが牢人を退去させていないことを報告されている(『駿府記』)。

 

 同18日に二条城に到着した家康は、常高院を大坂城に派遣し、三か条の書付を届けさせた(『駿府記』)。どのような条件が大坂方に提示されたのかは分からない。

 

 同26日、二条城で家康と秀忠が会談。この席で豊臣方への攻撃は同28日と決められた(『駿府記』)。

 

  ところが、この日の出撃は直前になって中断されている(『本光国師日記』)。雨が降ったために延期されたようだが、翌日、翌月3日と定められた出陣日も、家康と秀忠の密議によって中止されている(『駿府記』)。これらの日程で雨が降ったなどの天候の記録はない。

 

 どうやら、秀頼と淀殿が家康の提示した条件を受け入れるための時間的な猶予を与え、引き伸ばしていたらしい。つまり、家康はギリギリまで豊臣家との武力衝突を回避しようとしていたと考えられる。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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